1. 榎本好宏作品 |
  2.  同人の秀吟 
  3.  |航路抄 
No.46 2021年11月発行
日高俊平太 選

雲の峰石屋は石のこゑを聴く
下山氷見子
 石のように黙るという表現があるように、石は沈黙したまま長い時間を過ごしてきた存在です。しかし、石にはこの長い時間の思いが詰まっており、その石の声を彫り出す、石屋の無言の作業に作者は尊いものを感じているようです。雲の峰という現実の大景と地質学的ともいえる長い沈黙の時間の経過を反映する中七下五の表現の対比がこの作品の格を決定づける要素であることは疑いもありません。
煙草火の夜半の犀川星涼し
秋山  健
 犀川と浅野川は金沢の有名な二つの川ですが、「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」と歌った金沢出身の室生犀星の名前も犀川に因んだものであると記憶しています。旧制四高出身の秋山さんの犀川の岸で煙草を吹かす若き日の姿が浮かんでまいります。たしか、犀川の土手には犀星の歌碑のほかに芭蕉ら俳人の句碑も立っており、秋山さんの句にはおのずから読者を遠き世界へ誘う働きも感じられます。
蕎麦の花暮れ残りゐる爺が岳
保坂 定子
 人にはそれぞれ「原風景」とでも呼べるものがあります。俳句を読む楽しみの一つはそのような原風景を思い起こす作品に出合うことでありますが、この句はまさに保坂さんの原風景に重なる、あるいは原風景が立ち上がってくる作品であろうと想像しました。同じ傾向の原風景を感じさせる句には虚子の「遠山に日の当たりたる枯野かな」があります。また保坂さんの句は近景遠景の構造という点で蛇笏の名吟「芋の露連山影を正しうす」に繋がるものを感じます。
稲雀の飛び立ちもぐるひとところ
澤田美奈子
 幼少時に田舎の農村風景に慣れ親しんだ私にも既視感のある懐かしい世界です。飛び立った雀の群れがまた戻ってきて、稲に潜る様子が巧みにとらえられています。題材は全くちがうのですが、岸本尚毅の「秋潮のくぼみて波を生むところ」と同じ感覚の巧さを感じます。稲雀については私も「絨毯のめくれるやうに稲雀」という句を残しています。
秋の蚊を打ちて見下ろす罫の上
別所 信子
 はじめは「罫の上」がわからず、見逃していたのですが、実はこの罫の一字がこの作品にユニークな写生句としての地位をもたらす殊勲者なのです。「罫の上」とは罫線のある紙の上に蚊を叩きつけた情景であることを知ると、この句はがぜん面白くなります。罫線に沿って蚊の死骸を置いたような不思議な絵が浮かび上がってきます。作者は航連載の鑑賞欄「なつかしきもの」の執筆者で、そこで選ばれる作品は読者の情に訴える作品が多いと感じていましたが、このような意外性のある視点の写生句を詠まれることにびっくりしました。世の若い俳人に自慢して見せたくなるような見事な写生句です。
庭下駄のピタッと止まる子蜥蜴も
大須賀衡子
 まず庭下駄が止まり、その気配で子蜥蜴が止まる。その順番が簡潔に表現されています。作者は下駄をはいて庭に出たところ、子蜥蜴を見つけて急に止まったのですが、それに驚いて子蜥蜴も止まったのです。実に省略の効いた俳句らしい表現であり、小動物を詠んだ面白さも感じられます。このような日常生活の小さな発見を俳句に詠んでゆきたいものだと感じさせられました。
考妣(ちちはは)も泊つてゆけり秋の蚊帳
太田かほり
 帰省は夏の季語ですが、他の提出句から作者は秋に帰省されたものと思います。写生を重視する俳人は「考妣も泊つてゆけり」のような虚の表現を観念だとして受け付けない傾向がありますが、私は表現の背後にある作者の思いとその思いを読者に共有させる無形の要素を考慮したいと思います。作者は故郷の家に帰り、子供の頃父母と一緒に寝た記憶のある蚊帳で一晩過ごされたのだと思います。子供の時の記憶が蘇り、考妣も泊つてゆけりの表現に繋がったものと思います。作者は俳句評論・鑑賞の実績が豊富であり、榎本主宰作品の鑑賞欄(「榎本好宏句集を読む」)を担当しておられますが、俳句実作面でも独自の境地を拓いて行かれるものと期待しています。
無人駅又無人駅秋桜
柏倉 清子
 主宰のお供をして福島地方をよく訪れましたが、只見線には無人駅が多いのに驚きました。この作品は全て漢字で、無人駅の様子を伝えるのみならず「秋桜」により無人駅の独特の詩情まで伝えています。簡単に見えて、私の只見線の旅行の記録となるような一句です。