1. 榎本好宏作品 |
  2.  同人の秀吟 
  3.  |航路抄 
No.38 2020年7月発行
榎本好宏 選

 二月頃から始まった「コロナ騒ぎ」は、誰にとっても近年にない辛苦の経験だけに、この航路集にも多くの句が寄せられてきている。しかし、少々残念なことに、そのどの作品にもうなずけるものは少なかった。多くは「コロナ」の文字を書き、この言葉にふさわしい「負」の要素の季語を合わせるだけの取り合わせで終わっていたからかも知れない。
 ちなみに小生の近作を再掲するが

  振仰ぐ籠りの日々の端午かな
  葱坊主けふの遠出を花屋まで

 も「コロナ」を詠んだ句である。「籠りの日々」とだけしか言わないが、この裏に辛苦の家籠りの毎日を込めた積もりだし、「けふの遠出を」にも、家籠り解消のための外歩きの思いを詠んだつもりである。また両句とも、「コロナ」の流行が過ぎれば、別の視点で鑑賞してもらえる工夫も凝らした積もりだがどうだろうか。
 ──ま、そんな思いの中で、今月の巻頭句に選んだのが次の一句である。
ちりとりは八重の桜となりにけり
田口 愛子
 「ちりとり」と「八重の桜」だけの素材だが、座五の「なりにけり」で一句が深まり、見事な時間句になった。このお宅にはまず染井吉野の桜があり、毎日花見を楽しんだ末に散る花の片付けも行ってきた。ややあって、今度は八重桜が花をつけ始めた。これまた花見をした後、花の片付けを塵取りで行う──という物語りをこの一句は持っている。
 こうした物語りを読んだ相手に抱かせるのは、俳句特有の「時間」の流れが込められているからである。つまりB点(八重桜)を描きながらA点(染井吉野)まで想像させるのは中七の「と」と、座五の「なりにけり」である。仮にこれが「で」と「ありにけり」だったら特選句にはならなかった
ばつ印ばかりの暦夏に入る
吉田 洋子
 前書きで「コロナ」俳句を否定したが、逆にこの一句は成功した例かも知れない。立夏といえば新暦の五月五日、つまり五月の連休を終える頃に当たる。当然のことながら、実生活に戻る夏のプランが誰にでもぎっしりの季節でもある。例年なら暦や手帳にその予定が書き込まれているはずなのに、その項目に皆ばつ印が付いているという。
現実にいま「コロナ」騒動があるから、ばつ印で消された原因はそこにあると誰でも思う。しかし「コロナ」騒動が終わった時代にこの句と出遭ったらどうだろうか。やはり暦にばつ印の付いた原因は、作者にのっぴきならぬ原因が発生した故の行為という見当はつく。つまるところ、この一句が「コロナ」から独立して成り立っているということである。
ことりと音雛の五人囃子かな
三枝美智子
 微細な音は普段あまり気にならないものだが、雛壇が飾ってあると、この作者のように気になるものだ。それは、文章を書きながらペンを置く音だったり、杯を置く音なども、微細な音として作者の耳に届くのだろう。作者の耳には途端に実が虚に変じ、雛壇の上の五人囃子の奏する調べに変じていく。もう一つこの句は調べのよろしさを特徴としている。五音七音にまたがる句またがりも、字余りもありながら口ずさむと滑らかな呟きになるのもこの方の修練の結果だろうか。
道祖神の花を直して田を植うる
藤川三枝子
 一句の意味からだけ言えば、道祖神の前に供えてある花が曲がっているので、それを供え直してから田を植え始めた──となるが、それだけでは面白くない。
 もともと道祖神は村境にしつらえられ、「あの世」の入口にある神とされてきた。また、外来の疫病や悪霊を防ぐ神でもあるから、集落の人達にとっては供花がかしいでいることも一大事なのであろう。
種蒔きの褒められてをり左利き
原山テイ子
 何の種を蒔いたのか定かでないが、小さい粒を均等に上手に地面に蒔くには技術がいる。この句のモデルは、それを上手にこなしてみせた。よくよく見るとこのモデルは左利き。昔から左利き(左ぎっちょ)は器用者とするから当たっている。酒好きのことを左利きと言うがこれは別。
里山はなにはともあれ抱卵期
安部 衣世
 この一句も「コロナ」流行のさなかで見ていけば、そこに収まるが、そのコロナ騒ぎはともかく、里山は鳥も魚も虫も、今生き物全てが抱卵期の最中であるという豊かな発想になる。今、手許の歳時記に「抱卵期」は見当たらないが、春の季語として十分だろう。
田植靴どさりと脱いで昼餉どき
吉田 一男
 現在の田植えは機械でするとは言え、降りては田中に入るので靴もぐしょ濡れで重い。田の畔にしつらえられた昼餉の膳に、その靴を脱いで座る解放感は何とも言えないものであろう。自ら経験した人以外には決して分かってもらえない気分かも知れない。
蒼天へ牛が牛呼ぶ厩出し
蒲田 吟竜
 とくに雪国では、冬の間うまやにつないであった馬や牛を、春になって野に放ち、ひづめを固めさせることを厩出しと呼んでいる。雪消えの野に放たれた牛も、この句のように互いに呼び続けていることだろう。
道端に研屋来てをり涅槃西風
下山永見子
 田舎にはよく研屋がやって来ていたが、今でも来るのだろう。昔の研屋は「ハサミ バリカン研ぎ!」と呼びながらやって来て、井戸水の汲める周囲に店を開いたが、今はどんな風なのだろう。折から涅槃西風の吹く日なのだが……。
剪定をせねばせねばと見上げをり
三浦  郁
 庭木や垣根に芽が出たと思っていたら、日に日に葉が目立つようになってきた。「剪定をせねば……」と思いつつ日延ばしにしていて、ややあせる思いの毎日なのだろう。この分では植木屋を頼むことになるかも知れない。