1. 榎本好宏作品 |
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  3.  |航路抄 
No.40 2020年11月発行
榎本好宏 選

 コロナ禍と、この夏の猛暑の影響は、十一月号のこの欄の投句にも及んでいて、隠蔽から逃れようとする矛先が、あらぬ方向に傾いている傾向の作品が相変わらず多く見られて残念だった。
 そんな中、私の気持ちを救ってくれたのが、投句用紙の通信欄に書かれた数行の一文だった。書いてくれたのは、福島県奥会津在住の馬場昭子さんで、こんな風に書いてある。「大根の間引き菜を味噌汁にして食べました。なんだ か、しあわせってこんな事かと、ちょっとセンチメンタルに」と。八月末に蒔いた大根は何度も間引きを行う。最初の間引き菜はそのまま味噌汁に入れればいい。
 その馬場さんに替わって私が一句を仕立てると

  味噌汁に今朝の大根おろ抜き菜

となった。これで、コロナ禍からも猛暑からも解き放たれるといいのだが。
 ──今月のこの欄の巻頭には、次の一句を選んだ。
震災忌風に祷りの匂ひあり
田中  勝
 震災忌は、大正十二年九月一日、東京で発生した関東大震災の犠牲者の霊を供養する日──くらいの語感しか、現代を生きる人にはない。大正十二年と言えば、九十七年前、震災の現実を語れる人も皆無に等しい。大正八年生まれの我が師、森澄雄でさえ、生涯に十三冊を残した句集の中にも、震災忌の句は一句も収められていない。
 その震災忌を、昭和十二年生まれの田中さんが詠んだことが妙に興味深い。田中さんは震災地の東京の下町に生まれ育った人だから、両親や祖父母といった人達の中に、かの震災を知る人が多くいたのかも知れない。そうした先人から大震災の生の様子も聞いていたに違いない。その現実の中で、田中さんの現(うつつ)の身中には大震災の構図が生まれてきたのだろう。
 その忌日に吹いた風にさえ、「祷り」を思い、「匂ひ」に現実感を持つ。祖先からの伝来が持つ伝達力の強さを読者に伝えてくれる一句である。
八月や聞いておかねば語らねば
佐藤 享子
 前記の震災忌と違って、この句で言う「八月」は、昭和二十年八月の三つの忌日、つまり広島忌、長崎忌、さらに終戦忌を指しているから、まだ現を語れる人は周囲に多い。佐藤さんのこの句の手柄は、八月の忌日と言わずに、この「八月」を手放したことにあろうか。とはいえ、ある年齢以上の人は、「八月」となるとちょっと立ち止まりたくなる月でもある。そういう語感がこの「八月」にはある。
 佐藤さんの八月という節目の年は、年齢に換算して子供の時代だったから、大人から多くのことを聞いて育った。その蓄積を思ったとき、ご自分の年齢とも思い合わせると、これまで自らの中に貯まった重いものを、人に語る立場も併せ持とうというのである。その深い思いが「聞いておかねば語らねば」の一文になった。
米茄子の尻だうだうと売れ残る
齊藤 眞人
 「航」誌今号に別掲の「航賞」の受賞者として齊藤さんは入賞しており、そこでも触れたが、齊藤さんは奥さんの耕す畑の助け人でもある。この句でいう米茄子も齊藤農場で出来た一品で、畑の脇にしつらえた自動販売棚に並べられた一品なのだろうか。これと一緒に並べてあった野菜は全部売り切れたのに、どういうことか作者自信の米茄子だけが売れ残った。
 この米茄子、その名の通り、アメリカから伝わった品種の改良品でヘタが緑色で、大きな卵形をした茄子。品種にも見た目にも変わっているので、一句に滑稽味もあふれることになる。
供ふるは分ち合ふこと良夜かな
上春 那美
 十五夜や十三夜を良夜と呼ぶが、かつてはどの家でも月に供え物をしたものである。そんな折、やん茶盛りの子供達は、よその家の供え物を盗っては楽しんだものである。寂しいことに今は名月に供え物をする家庭は少なくなってしまった。このお宅にはその習慣が残っているのだろう。お供えは、供える相手と一緒に食べるということでもあり、例えば、供えた団子は、月見が終えた後、家族、仲間と分け合って食べる。そこに、「分ち合ふ」という団らんが生まれる。
もう秋と一筆箋を荷に添へて
馬場 昭子
 この稿の冒頭に便りを紹介した馬場さんの一句である。一体どんな秋の初物を送ったのだろうか。馬場さんの住む奥会津をよく知る私なら打ちたての蕎麦を想像する。待ちに待った新蕎麦だからである。
暮れ泥む風新しき川床涼み
櫻井 宏平
 京都の鴨川に掛かる四条大橋辺りを四条河原と呼んで、料亭の川床料理店が並ぶ。暮れそうでなかなか暮れない頃合い、鴨川沿いに吹く夕風が何とも心地よく感じられたのだ。
片陰を知り尽くしてや行き帰り
後藤 政子
 今夏のように、五十日も真夏日が続くと外歩きは辛い。主婦にとっての買い物道も、コースによって、時刻によって片陰を拾いながら歩けるコースがあるという。
どの家も静かに暮れて盆終わる
渡部 華子
 どのお宅も、お盆の間は帰省客であふれにぎやかだったが、お盆が終ると途端に元の静けさに戻ることになる。
峯雲にまとまる力散る力
百瀬七生子
 山の峰のようにそびえ立つ積乱雲を、入道雲とか峯雲と呼ぶ。そのできる力、散る力の大景を言い留めた一句。
大夕立豆炒るやうに始まりぬ
花村 美紀
 雷鳴とともに大夕立は、家々の屋根を強く打ちながらやってくる。その音を主婦らしく豆炒る音ととらえた一句。