1. 榎本好宏作品 |
  2.  同人の秀吟 
  3.  |航路抄 
No.42 2021年3月発行
榎本好宏 選

 コロナ騒ぎに一喜一憂しながら一年が経った。俳句を始めて五十年を経た我が身にもこの一年はあまりに重すぎた。詩や短歌と違って俳句は、人間関係を人一倍大事にしなくてはならない文芸なのにそれが断たれた。俳句にとって人との会話が日常なのにそれが出来ない。この苦難は、私だけでなく、この欄の投句者の作品にも見られ、皆孤独過ぎる。心理学の専門でもないから、これ以上のことは言えないが、私も含めて、他人との会話をもっと意識的に強めていかなければならないのでは、と強く思う日常である。
 そんな思いの中、今月の巻頭句には次の一句を選んだ。
落穂匂ふ祈りのかたちみな同じ
安部由美子
 この一句を読んでいると、ミレー作の油絵「落ち穂拾い」が思い出される。ルーブル美術館蔵のこの絵、落ち穂を拾う三人の農婦を描いたものであり、まさに「祈り」につながる。 このミレーの絵とは別に、ヨーロッパには農村共同体が弱者の保護と扶養の手段として、収穫地に散乱する落ち穂を、老人、寡婦、孤児、廃疾者などに拾うことを許していた。こうした社会的弱者や子供が落ち穂拾いに駆り出される風習は日本にも古くからあって、私なども戦時中に同じ体験をしてきた。そんな体験をミレーの絵に浸りながら、安部さんの一句を唱和しながら、こんな一句ができた。

  夕焼くる落ち穂拾ひの善男女(ぜんなんにょ)  好宏

だるまさん転んだ青木の実コロリ
永井  環
 「だるまさんが転んだ」は子供の遊び。じゃんけんで鬼を決め、鬼は壁などに向かって「だるまさんがころんだ」と唱え、その間に鬼に近づいていく遊び。このたびの鑑賞は、遊びそのものより、一句の「調べ」について書くことにする。
 この一句どこで切れても五と七の音に収まらず、「だるまさん転んだ」(九音)と、「青木の実コロリ」(八音)の組み合わせになって十七音に収まる。加えて、読み方にもよるが、十七音がある音感をかもし出す。これも俳句の大事な調べなのだろうか。
綿虫について行くなと言つたのに
太田かほり
 綿虫は飛ぶ時に綿屑のように見えるところからこの名があり、雪虫とも呼ぶ。かつて、仕事の都合で三冬雪の札幌で過ごしたことがあったが、この折の綿虫の印象が私には忘れられない。初冬の十一月頃出始める。「雪かな」と思うとこの虫が舞い始め、この虫に引き出されるように雪が舞い始めるのだった。
 その綿虫に作者は「ついて行くな」という。私達が子供のころの親の言葉に、「見ず知らずの人について行くな」があった。人攫いへの忠告でもあった。果ては「サーカスに売られるよ」まで言われたものである。その語感の残っている私には、「ついて行くなと言つたのに」の結果、ついて行ってしまったところに〝詩〟を感じるのである。その〝詩〟がどんなものかまでは、私には余白が持てない。
千羽鶴ほどけて空へどんど焼
太田 直史
 この一句と同じ場面を私は、何度も福島県の奥会津のどんど焼きで目撃している。日本での正月は盆と同様魂祭りでもあり、亡者の供養のため火祭りを行うところが多い。正月の松飾り、注連縄などを各家庭から集めて焼く。左義長と呼んで子供の行事となっているところも多く、この句のように千羽鶴も持ち込まれる。炎で糸が焼き切れると折り鶴は舞い上がり、その名の通り空を舞う。実から虚の世界がひらけるのだ。
干す藁の匂ふ日和の続きをり
露木 敬子
 かつては稲の収穫後どこからも匂っていた藁だが、機械化が進んでいくに従い、そうはいかなくなってきた。それでも、神棚や門の注連縄作りなどに備えるため、細々と辺りを匂わせながら藁が干されているのだろう。
検針のをみな触れゆく水仙花
栗原  満
 ガスか電気の検針員が、さり気なく水仙の花に触れた光景だろう。仮に花が目立つ椿だったりバラの花だったら、近くにいる家人に声でも掛けるのだろうが、水仙はあまりにも目立たない花。検針員と水仙の間に通う得心に相づちがうてれば十分である。
どうぞてふ高さなりけり猿茸
三浦  郁
 猿茸とは、ちょうど猿が腰掛けるのに相応しいところから、猿の腰掛けと一般に呼んでいる。多くは樹木を腐らす害菌であるが、俳人にとってはこの作者のように、利用するとおぼしき猿に呼び掛けてみたくもなる植物である。そう読むことで滑稽味も帯びてくるのである。
夜廻りの柝の音の揃ひ終りけり
田中  勝
 毎晩やって来る夜廻りの柝の音、早い時間はなかなか揃っていないのだが、時間が経つに従って柝の音が揃う。毎晩のことだが、そんな時間になると夜廻りも終わりになる。