1. 榎本好宏作品 |
  2.  同人の秀吟 
  3.  |航路抄 
No.14 2016年7月発行
榎本好宏 選

 毎朝の散歩を楽しむ道々の、春の花々が終わるころ、楓の花が咲き始める。葉に隠れてあまり目立たないが、若葉の間に、竹とんぼ状の小さな花が付き、毎日少しずつ赤みを増してくる。つれて、私の散歩時間は長くなる。
 目立たない花だから立ち止まって見上げる人もいないが、時々、思い余って、楓の花の小枝を折ってきて、机上の一輪挿しに挿しておく。こんな花を身近に置く幸いは、ここ数年のことだから、自分でも不思議なほど、齢をとったんだなと思うようになってきた。
 さて、今月の巻頭には、「航」に最近入って、しかも初投句の蓜島さんの次の一句を選んだ。
囀や五百羅漢の千の耳
蓜島 良子
 改めて説明するまでもないが、仏教語の五百羅漢は、仏典の第一結集に集まった釈迦の五百人の弟子のことである。東京の近くでは、川越の喜多院に五百を超える羅漢がある。これらは、俗に言うと、人間がとるさまざまな姿態すべてを像としたものだという。東京・中野にあるわが家の菩提寺にも数十体あって、墓参の折りに私も必ず見て回ることにしている。
 その五百羅漢、当然のことだが千の耳を持っている。その千の耳が囀に耳を傾けているのだから面白い。同じ春の季語の「百千鳥」なら単なる鳥の地鳴きだが、囀は雄が雌に呼び掛ける鳴き声だから、少々艶っぽくなる。と同時にこの一句、現代俳句に消えかけている滑稽味をたたえているところも絶妙である。
花満ちて小暗くなりし巫女だまり
青山 幸則
 今年の桜の時節は、暖かかったので、桜前線の北上も、例年になく早かった。そのせいか、この作者の見た神社の桜の花も、いつになく華やかに咲いたことだろう。一般の句作りはこの辺で終わるが、目いっぱいに桜の明るさを湛えた作者が、何気なく振り返った社務所の「巫女だまり」がいつになく小暗く見えたというのだ。この対比の感覚の中に、一種の詩が生まれた。
己が姓継ぐ子なかりし桃の花
永井  環
 昔から、その家に跡継ぎがいないことは大変だった。それがため旧家や商家では、婿養子を迎えて「家」や「家号」を守った。それほどでもない現代とは言え、姓を継ぐ子がいないことは寂しい。私事だが、わが家も、息子と娘のところに孫が四人いるが、みんな女。息子の代が終わると、墓参りすらしてくれる身内がいなくなる。それはともかく、この一句のよろしさは、そうした事柄への取り合わせとして、「桃の花」が程よいところに置かれていることだろう。
根の国に夫を待たせて蓬餅
前田 智子
 あまり聞き慣れない「根の国」とは、日本での古くからの他界観の一つで、『古事記』に「根堅洲国」(ねのかたすくに)と書かれてある。とすれば、作者のご主人は、既にそこにいるということだろう。折からこのお宅では、毎年「蓬餅」をこしらえる季節となり、例年のごとく仏前に供えるのだろう。普通なら鑑賞はここで終わるのだが、上五に「根の国」を置いて、続いて「夫を待たせて」の文言を置かれると、少し過剰鑑賞かも知れないが、「そう遠くない時期に私も……」という意味にとれなくもない。
春の雪宴の後のやうに降る
岡本りつ子
 作者の住む福島県の奥会津は豪雪地帯である。この地方からの、毎号の投句用紙の「通信欄」にも真冬の豪雪の様子が書かれてあるが、今年は雪が少なかったせいか、「屋根の雪下ろしを一度もしなかった」なる文面もあった。その豪雪を毎年経験している作者にとって、「春の雪」とはまさに「宴の後のやう」なのかも知れない。雪の片付けをするでもなく、ただ雪とだけ向き合える安穏の世界なのだろう。「宴の後」の比喩が、言い得て妙としか言いようがない。
離檀せる枝垂桜も老いにけり
小谷 迪靖
 「離檀」とは文字通り、檀家が寺との縁を切ることである。事情は穿鑿したくないが、跡継ぎがいないとか、古里の寺に帰るなどの事情があったことだろう。この寺の檀家になった時分は、枝垂桜も小さなものだった。しかし今は大木になり、見事な花を咲かせてはいるが、もう老木の姿。この桜と毎年出会ってきた〝時間〟が思われることだろう。
芹摘みの水したたらし裏の木戸
髙部せつ子
 近所の知人が、自から摘んだ野芹を届けに来てくれた光景だろうか。その芹の汚れを取り除いて洗い、笊に入れて持ってきてくれた。作者が出て見ると、笊から水が滴っている。この「水したたらし」が見事だ。
花びらを付けて金魚の掬はるる
渡辺 幸弓
 春祭りに出た夜店での光景だろうか。苦心してやっと掬った金魚の網に、折から散ってきた桜の花びらが一枚乗った。周りもわいたことだろう。この「花びら」が俳句の世界を広くした。
声明のうねりのやうに花筏
藤川三枝子
 散り始めた桜の花が川面に散り、「花筏」となっている。折から川面は昨夜の雨で水量も多く、さながら僧が朗唱する「声明」のようにうねっているのだろう。
牛蒡の芽その無器用な匂ひかな
吉川 伸生
 牛蒡の芽の匂いをかいだことはないが、野菜の牛蒡と同じ匂いがするのだろう。野菜ならともかく、芽までが同じ匂いなので、作者は思わず「無器用な」とつぶやいた。その滑稽味が面白い。