榎本好宏 選

  1. 主宰作品 |
  2.  同人の秀吟 
  3.  |航路抄 
No.32 2019年7月発行

 近所のお宅に牡丹の花が咲き、人が集まっているので、つい
  牡丹咲く昔ながらの隣組
なる句を作って今月号に発表した。とはいうものの隣組なる言葉が今も残っているだろうかと思いつつ、手許にある『消えた日本語辞典』を開いたら、その「隣組」が出ていた。それによると、昭和十五年に、当時の内務省の通達により出来た制度で、防空、防災、配給などに備えるものだった。それも戦時中に歌った「とんとん とんからりと 隣組」を今も時々口ずさむが、この歌「隣組」も同じ昭和十五年作というから、一種の国策だったのだろう。「俺も古くなったなあ」とつくづく思う。
 今月の巻頭には次の一句を、迷いなく頂いた。


  

開拓の牧の五代目初幟
天野 祐子
 五代目とあるから初代は明治時代の方だろう。明治の新制度が出来ると、国民の多くは地方の未開拓地に入り、田畑や牧場を開き始めた。洋風の食習慣も入り、田畑の労働にも必要だったから牛馬も多く飼われるようになった。
 その牧場の開拓者のお宅も、代々後継者ともなる男の子が生まれ四代目まで続いてきたが、周囲の心配をよそに五代目の男の子が生まれた。家族の喜びはひとしおだったに違いない。その溢れるような喜びが、「初幟」にあふれている。
葺替の屋根に幾たり結の人
後藤 千鐵
 今でも一部に残ってはいるが、田畑や屋根替えなどの折、互いに助け合う結(ゆ)いという制度があった。この一句もそんな制度の一場面だろう。かつて歳時記では、屋根替えや屋根葺きは秋の季語だったが、農作業の忙しさと、素材の藁や茅の乾燥が間に合わないため、春の農閑期に行うようになり春の季語となった。結いの制度の少なくなった現代では、藁葺きなどの家は、上から鞘のように覆う金属の屋根を掛けている。私の通う福島県の奥会津にも、こういった造りの住宅が多く見られる。
麦秋やもう振り向かぬ登校児
大須賀衡子
 麦秋は私も好きな季語の一つである。小麦畑はやや黄ばんだ色をしていて、大麦畑の方は茶色がかっていて、その麦秋のころ辺りに漂う匂いは実にすがすがしい。こんな光景も、地方に行かないとなかなか見られなくなった。この句に言う登校児はこの春入学したばかりの小学校一年生だろう。入学したばかりのころは、学校への道中が珍しく辺りをキョロキョロ見ながら登校したが、麦秋のころともなると道中に慣れたから、脇目もふらずに歩いているのだろう。辺りの光景も取り込むことで季語の麦秋が一層豊かになっていく好例の一句と言えようか。
葉ざくらや草書のやうに祖母のあり
花村 美紀
 いまの大方の家庭は親子だけで暮らす家が多くなったが、かつては祖父母と一緒の家が多かった。そして、その祖父母からの孫への影響も大きかった。花村さんもそうした家庭に育ち、祖母から受けた影響が大きかったに違いない。その祖母の印象を具体的ではないが、一言で表現すれば、「草書のやうに」だったという。仮に「草書のやうな」だったら、単なる祖母の在りようの表現に終わるが、「草書のやうに」としたことで、自分との関わりが見えてくる絶妙さがある。
百僧のたちゐ音なき涅槃講
岩井 充子
 涅槃(ねはん)講は、釈迦の入滅を追悼して、陰暦の二月十五日に行われる法会のことで、涅槃会とも言う。百人もの僧が一堂に会して行われる涅槃講の僧の一人一人が、物音一つたてずに動き回るのだという。茶道でもそうだが、膝を折って足を高く上げずに、床面すれすれに足を運ぶし、物を置く場合も置く場所すれすれまでは早いが、置く場所には音を立てないでそっと置く。その僧の立ち居の無音が作者には不思議だったのだろう。
夜蛙やそれぞれ寮へ新社員
秋山  健
 新入社員はそれぞれに寮があてがわれるが、会社から少し離れた農村地にあるのかも知れない。田植えを終えたばかりの辺りの田から、夜も蛙の声が聞こえてくる。都会に住んでいた若者には少々寂しい環境かも知れないが、一人前になるために、誰しもが経てきたことである。
鶯に解けてしまひぬ靴のひも
安部由美子
 鳥の中の鳥とも言っていい鶯、鳴き声を聞くとつい耳を傾けてしまう。気付いてみると履いている靴の紐がゆるんでいる。そうではないことは分かっていても、鶯の鳴き声が紐をゆるめたと思いたい。この思いも、俳諧で大切にしている滑稽なのかも知れない。
橋裏も見上げ墨田川(すみだ)の花見船
齊藤 眞人
 物の本によると、墨田川の花見船は江戸時代からあったらしく、千住大橋から十一ある橋をくぐりながら下ったのだろう。酒も入っている花見客には、橋の下の景は見たくないものばかりだったに違いない。
行く春や仕舞ひ忘れし大皿を
露木 敬子
 春は祝い事が多く、大勢の人を招いての宴が多くなる。卒業や入学はもちろんのこと、転勤、花見などが続く。そこで普段は使わない大皿の登場となる。その大皿のしまい忘れも滑稽につながろうか。
髪染めぬことも勇気よ桐の花
佐藤  道
 髪が豊かで真白な髪の女性も時々見かけるが、年配の女性の大方は髪を染めている。となれば、この作者のように染めないことに勇気が要るだろう。そのことと、季語の桐の花との取り合わせが見事だ。